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ロウマッチの擦り方
■50両の試作マッチと川本幸民

川本幸民
 文化7年(1810年)〜明治4年(1871年)江戸後期の蘭学者、医者、化学者。号は裕軒(ゆうけん)。
 父は三田藩(さんだ、兵庫県)の侍医川本周安。 文政12年(1828年)三田藩藩主九鬼隆国に命ぜられ江戸に留学し、蘭方医の大家坪井信道に蘭学を学ぶ(緒方洪庵の兄弟子)。 天保4年(1833年)三田に帰り父と同じ藩医となった。
 40歳を過ぎた嘉永4年(1851年)『気海観瀾広義』を著したころから彼の活躍期が訪れる。
 同書は初等物理学全般にわたる内容を述べたもので、それまで医学の補助学科だった物理、化学が独立して研究されるきっかけとなった。 いわばわが国物理学の教科書となった記念すべき著作といわれている。

マッチに関するエピソード
 1847年 燐をもちいたマッチを作ったという記述が『裕軒随筆』という彼の著書に載っている。

 幸民が江戸の豪商の家に往診に行った際、そこの主人が西洋にはマッチという便利なものがあるらしいが、もしマッチを作れたら50両を与えようと言った。 作れないだろうと思って言ったのだが相手が悪かった。 興味を抱くとさっそく研究実験にかかるのが幸民の性分で試行錯誤の後ちゃんと完成させた。 そのマッチを持って商人の家に行き目の前で着火させたからたまらない。 商人はあれは冗談なんですよと言って金を出し渋った。 がこの話が江戸の商人仲間に広がり、この商人の信用にかかわることとなったので渋々50両を支払ったということである。

 幸民は西洋の化学書を翻訳していたので1830年代から欧米で作られた黄燐マッチの成分等の知識はあったものと思われる。

 幸民は学者なので作れたことで目的は達成し産業化には興味はなかったのだろう。 また50両支払った商人も事業化しなかったとろをみると製造には危険が伴い安定した製造法にはほど遠かったか、原料薬剤の供給がなかったのではないか。

 当時の50両は米価で換算すると今の150万円くらいか?

参考文献
 『マッチ時報』平成3年5月20日 日本燐寸工業会
 『蘭学者 川本幸民』北 康利 著 2008年 PHP研究所

黒田 康敬
2014年08月18日