事件の背景
日本は明治9年にマッチを国産化し、早くも翌明治10年には輸出を開始した。
明治の後半から大正中期にかけてマッチ産業は最盛期であり、生産高の80%が輸出され外貨を稼いでいた。
当時の世界三大生産国がスウェーデン、アメリカ、日本、であったので、世界市場で日本は欧米との競合状況ににあった。
その下でのアメリカのダイヤモンドマッチ社からの提案である。
ダイヤモンドマッチ社は日本政府がマッチの製造専売制度を実施して同社と組んでマッチの世界市場を仕切ろうというものであった。
明治37年(1904)9月13日 時の大蔵次官阪谷芳郎はダイヤモンド会社の代人と称するキルビーと面談し、具体的内容を次のように受けた。
ダイヤモンドマッチの提案
- ダイヤモンド会社ハ 英国、瑞典、其ノ他各国ノ「マッチ」製造所ヲ漸次併呑シ 近頃ニ至リ仏国政府モ亦同会社ト「マッチ」販売上ニ付一定ノ協約ヲ為シタリ
- 東洋ハ専ラ日本製「マッチ」ノ市場ナルヲ以テ ナルヘク日本政府ト一ノ協定ヲ為シ 無用ノ競争ヲ避ケンコトヲ望メリ
- 同会社ノ調査ニ依レバ 日本ノ「マッチ」製造所ハ263ニシテ規模頗ル狭小ナルノミナラス 製造方法最モ旧式ナリ 従テ粗製乱造ヲ免レス
- 専売制度ヲ開始スレバ 年間300万円ノ純益ハ容易デアル
同会社ハ之ヲ抵当トシテ5000〜6000万円ノ資金ヲ日本政府ニ貸与スル
専売事業創設資本ハ之ヲ以テ弁スルノミナラス 其ノ余ヲ以テ「軍資」ニ供給スルノ使アルヘシ
- 同会社ハ 日本政府ニ次ノコトヲ約定セン事ヲ欲ス
(イ) 工場機械ノ建設ハ一切同会社ニ於テ請負ヒ、製造上今日マテノ発明ハ総テ日本政府ニ譲ルノミナラス 今後、発明モ亦日本政府ニ伝授スヘシ
(ロ) 支邦、印度、朝鮮其他ノ東洋市場ニハ同会社ハ一切販売ヲ為ササルヘシ(但、フィリッピンヲ除ク)
(ハ) 前項ノ如ク勢力範囲ヲ定ムルニ付 同会社ハ相当ノ賠償ヲ日本政府ヨリ申受クルコト
(ニ) 他日 同会社以外ノ競争者カ東洋市場ニ現ハレントスルトキハ 同会社ハ日本政府ト共同シテ右競争者ノ撲滅ニ尽力スヘシ
そして、ダイヤモンド会社の提案が受け入れられない場合、ダイヤモンド会社自ら、工場を東アジア市場の各地に設置し、
日本製マッチと競争を開始する意図のあること、及び然るときは、
毎年日本より東アジア各地に輸出している850万円相当のマッチは大打撃を蒙るであろうことをも、代人キルビーは言明したのである。
更に、代人キルビーは、日本政府が契約地域外に直接又は間接に「マッチ」を販売し、
又はこれを輸入しないことを条件として、ダイヤモンド会社が提供する新式機械、
営業法、経験(ノウハウ)等により次のようなメリットを生ずる旨、言明した。
- 骨疸病(ニクローシス)に罹病する危険がないこと。
- 現状で日本が製造する「マッチ」よりも原価低廉にして、かつ品質良好な「マッチ」が製造、販売できること。
- 外国より競争を受けざること、並に競争して良品を生産できず、廉価のみを手段とする263ケ所の日本マッチ製造業者に代わって日本政府が、
これを製造、販売すれば、その販売価格を高くして現状よりも巨額の利益を挙げることができること。
かてて加えて、代人キルビーは、日露戦争中の我国の国庫事情を暗に指摘するかのように、
「貴政府ニ於テ(軍)資金入用ノ際 此専売ヲ抵当トスルニ於テハ海外ヨリ容易ニ2500〜3000万円ノ金額ヲ借用シ得ヘシト存候」と持ちかけた。
話が容易ならざることを直感した阪谷次官は、和田農商務次官、内田在ニューヨーク総領事に連絡し、事実を確定することにした。
その結果、ダイヤモンド会社の副支配人、ラッセル・ホウキンズから直接相手の意図を問うことができた
明治37年(1904)9月8日付のラッセル・ホウキンズの手紙は、次のような内容からなっていた。
「本社ハ 殆ント半世紀ノ久シキ 専心マッチ製造ノ業ニ従事シ 未ダ嘗テ一日モ其業ヲ廃止シタルコトナシ
然ルニ其間絶エス製品ノ進歩改良ヲ謀ルニ勉メ従ツテ本社カ其製造方法並ニ機械ヲ発明シ 実験シ 改良シ 又ハ之ヲ特許取得スルカ為メ消費シタル金額ハ実ニ驚クヘキ巨額ニ達セリ
今日ニ在リテ尚 此企画ヲ廃止セス 常ニ堪能ノ発明家及専門技術者ヲ使傭シ 此等ノ発明家及専門技術者カ何レモ其職務ニ勉物セルコトハ本社産額ノ巨大ナルコト及其品質ノ他ニ超越セル事実ニ徴シテ明カナリ
然ルニ今 本社ハ 150万ドルノ報酬ヲ受取リ之ニ対シテ右に述フル 本社カ多年経験ノ利益全部ヲ挙ケテ之ヲ日本政府ニ譲渡サントス 之ヲ詳言スレハ 本社ノ諸種ノ調製及製造方法ヲ日本政府ニ開示スヘシ
又諸種ノ改良及発明ニシテ本社カ現在有スルモノハ勿論 其将来ニ取得スヘキモノハ総テ之ヲ日本政府ニ伝授スヘシ 要スルニ本社ハ常ニ日本政府ニ教ユルニ最モ斬新ニシテ学理ニ合シ且経済的ノ製造方法ヲ以テスヘシ
但シ 日本政府ハ 日本 支邦 印度及韓国ノ領域内ニ限リ 右ノ機械ヲ使用シ及マッチノ製造並ニ販売ヲ為スコトヲ得ヘク 本社並ニ本社ノ同盟者ハ此等ノ領域内ニ在リテ其種類ノ何タルヲ問ハス「マッチ」又ハ其製造機械ヲ製造販売シ又ハ製造販売セシムルコトナカルヘシ」
その後、日本政府当局の調査によりダイヤモンド会社の実態が明らかにされていった。
ダイヤモンドマッチの概要
ダイヤモンド会社は、公称資本1500万ドル(邦貨3000万円)、払込額1475万ドル、毎年配当10%(1889以来)、純利益201万5000ドル(1900)であり、次のような設立経過及び経営方針を有していることが判明した。
1870年(明治3年)、アメリカで75のマッチ製造会社が、激しい競争をくりひろげていた。1881年(明治14年)コネチカット州法の下にマッチトラスト会社が設立され、このマッチトラスト社はコンチネンタルカンパニー等を次々と買入れ、その勢力を拡大し、遂に1899年(明治32年)ダイヤモンドマッチ会社と改称し、更にその規模を拡大していった。その方針は、輸送費を省くため、消費地に製造所を設けることにあった。このため、アメリカ国内のマッチ製造会社は、1900年その数20を数えるに減少した。これらの残った会社は、いずれもダイヤモンド社の支配下にあった。ダイヤモンド社は、技術開発を重視し、数多くの特許権を持ち、同会社の工場においてこれを使用することはもちろん、他の関連会社にも「条件」を附して使用許諾を行い、「巧妙ナル機械ヲ応用シテ製造」するニューウェーブの企業体であった。
また外国に対しても、特許、新技術を手段として、その支配、管理の手をのばし、イギリス、南米、スイス、フィリッピンに及んでいた。輸出入関係としては、次のようなことが判明した。すなはち、「外地に於いて同社の管理に属する製造所よりその製品を輸入して国内の需要に応ずるものとして、例えば、スゥエーデンよりヴァルカンマッチと称するマッチを輸入するが如き。もとより外国の製品に相違無きも、その実ダイヤモンド会社の関係する製品にして同社営業の一部分たるに外ならず。かくの如く、当地内の供給は、大部分同社の手にあれば、同社は更に、営業の利益を分享し、競争者を駆逐せんとするを以て同社の営業方針とする」次第であった。
日本政府の対応
これに対して政府内部には、戦時財政の苦しいのは分かっているがマッチ専売は過保護の一策であって輸出競争力を弱めるという反対派と、価格競争力がないので条件付賛成派の2つの考えがあった。
結局、マッチ専売法案は、前掲のような反対論に加え、マッチ製造業者間の足並みの乱れもあって、廃案のうきめをみた。
日本マッチ産業の課題
ダイヤモンド会社申出の非絶、マッチ専売法案の廃案により、我国は、これまで通り海外市場において欧米マッチと競争することとなった。しかし、従前の体制では限界があり、何らかの体質改善によって欧米マッチと競争してゆかなければならないことは明らかであった。
低価格政策をとる一方、技術開発、技術導入による品質規格の向上、特許、商標権の有効活用が提唱された。いうなれば、ダイヤモンド会社事件は、我国マッチ製造業に近代化、合理化のための危機感を与えた、といってよいであろう。
出典
『通産省広報』工業所有権制度百周年 昭和60年4月18日 から抜粋、一部加筆編集