■新燧社と清水誠 その5
清水誠を考える。本当は何をやりたかったか?
■加賀藩御算用者
『武士の家計簿』磯田道史著(2010年映画化)は加賀藩御算用者の幕末維新ドキュメントである。
御算用者とは加賀百万石の算盤係である。
『武士の家計簿』の主人公猪山成之は弘化元年生まれ、清水誠はこの1年後(12月25日生まれなので太陽暦では2年後)の弘化2年、
同じ加賀藩御算用者の家に生まれた。
猪山成之は安政4年御算用者(切米40俵)となる。
清水誠はこの6年後の文久3年に御算用者(同じく切米40俵)となった。
清水誠と猪山成之は同時代を生きたのである。
加賀藩御算用者の人材の優秀さには目をみはるものがある。
当時の加賀藩士族の身の振り方は簡単ではなく、詳しくは『武士の家計簿』をご覧ください。
■誠道居士
法名の誠道居士は良く本人の特徴を表現していると思う。
『交詢雑誌』の記事「翌九年三月ニ至リ横浜在留英国人某将ニ安全摺附木ヲ製セントスルノ挙アルヲ伝聞シ憤慨措ク能ハス
遂ニ同四月十四日ヨリ僅々二十日間公務ノ余暇ヲ得三田四国町ナル吉井君ノ別邸ニ於テ初メテ安全摺附木ヲ試製セリ」を読んで文中「憤慨」という表現が
少しおおげさではないか、或は当時の文字の使い方として普通であったのかとも思ったが「清水の頭に来かたがすごい」と印象に残った。
その後米田昭二郎氏の著作を読むと、誠20才の時「長崎で勉強中、二人連れの外人が路上で日本の悪口をいいながら通ったのを耳にし、
いきなり打ちかかって問題を起こした。」(『マッチと清水誠』)。
又誠24歳の時、フランスでの日記に「8月21日。此滞在中一之心外ナル事出来セリ。
ヴェルニー夫方の親類の家へ一緒に行った時、主人は我々に挨拶をしたが妻と娘は挨拶をしなかった、帰る時もまた同じであった。
しばらくあちこちを見物したあと夕食になり、ヴェルニーが先刻の親類の家へ行って食事をしようといった。
私はそれが嫌であったが今日到着したばかりの土地でやむを得ずヴェルニーと共に行ったものの、失礼な態度は前と同じであった。
私は怒りがこみ上げヴェルニーに自分の気持ちを伝えて家を出ようとした。
ヴェルニーは彼らが失礼なことをしているわけではなく外国人との交際が不慣れでこのような態度となるのだといったが、それを聞き入れず家を出た。
翌朝ヴェルニーが私に非を唱えたので私は我慢しながら、もしひとたび人が無礼な態度であることを許せば人はまた無礼をするであろう、
しまいには万人に屈せざるを得ないようなことになる、あなたは万人に屈することを好むかといった。ヴェルニーは黙って去った」(『日本海域研究』)とある。
以上のエピソードによって「憤慨」という表現が納得のいくこととなった。
注・ヴェルニー・造船所開設のため幕府が招いた仏海軍造船技師、清水誠の師であり彼の一時帰国に伴い清水はフランスに留学した。
■日本にこだわる
後年マッチ王といわれた瀧川弁三は同じ士族の出身である。
但し年齢は清水誠より5歳年下、またマッチ工場を始めたのは清水の4年後明治13年であり事業環境がちがうので単純に比較はできないがあえて比べて見ると。
- マッチのラベルについては、清水が桜をモチーフとして日本を強調するのに対して、瀧川は既に評価が確立されているスウェーデンマッチのラベルを平気でパクッている。
- 原料の調達については、塩素酸カリウム、赤燐の自社製造を清水は試みている。
- マッチの輸出については、当初から自社で挑戦している清水に対して、瀧川は強力な華僑と組んで輸出をしている。
清水はマッチを博覧会に出品し賞取をしている。
これは品質の信用を得て販売に役立てるためであるのは勿論のことであるが、良品であれば売れると考えているふしがある。
全体から見ると、売る(儲ける)ことに集中せず、得意分野以外をも内製化している。
商売人としてはいかがなものか、これらが新燧社倒産の遠因になったことは確実である。
■本当にやりたかったことは
明治2年フランスに留学し器械学を学ぶ。
明治7年フランス政府が清水を金星経過測検員に雇う、清水がいかに優秀だったか分かる。
同年7月来欧の宮内次官「吉井友実」にマッチ製造を依頼される。
同年12月フランス金星観測隊員として神戸で金星観測成功。
明治8年横須賀造船所に出仕。
造船所内で甜菜栽培、甜菜糖試作大隈重信に供覧。
明治9年造船課長となる。同年マッチの製造販売開始。
12月内務卿「大久保利通」に造船は他の人でもできるのでマッチに専念せよと言われて造船所を退官。
明治11年「大隈重信」からマッチ業は見通しが立ったから製糖業に従事せよといわれフランスへ調査に出かけた、
ところが在仏勧業局長「松方正義」は既に清水と同じ留学生だった在仏の山田に製糖事業の調査を命じたので、清水自身は今は暫くはマッチ事業に専念することにした。
吉井、大久保、大隈、松方等に取り囲まれてマッチに落ち着いた訳であるが、典型的な労働集約産業であるマッチ事業が
はたして学研肌の清水に向いていたかどうか疑問である。
清水の能力からすれば本務の造船の方が幸せであったかもしれない。
清水本人の意志とは別にしてマッチの開発、量産化、工場内福利厚生、同業組合の設立等マッチ産業のビジネスモデルを確立したことによる、
マッチパイオニアとしての清水誠の功績はゆるぎないものである。
参考文献
『武士の家計簿』磯田道史著 新潮新書 2003年
『交詢雑誌』第3号 交詢社 1880年
『マッチと清水誠』関崎正夫・米田昭二郎著 金沢大学薬学部 1996年
『日本海域研究』第42号「日本マッチ工業の開拓者 清水誠」米田昭二郎著 2011年
黒田 康敬
2011年07月16日