弘化02年
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1845年
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12月25日、金沢市穴水町に生まれる。幼名を金之助という。
父は加賀藩御算用者嶺新兵衛。
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嘉永07年
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1854年
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嶺新兵衛、加賀藩輪島御馬廻となる。
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安政05年
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1858年
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嶺新兵衛、加賀藩能州奥郡外浦山奉行となる(130石)。
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安政06年
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1859年
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8月16日嶺新兵衛死去。
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文久01年
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1861年
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金之助、清水小十郎(加賀藩御算用者・切米40俵)の養子となる。
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文久03年
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1863年
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金之助18歳、4月御算用者となる(切米40俵)。
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元治01年
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1864年
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海防掛執筆役に就く。
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慶応01年
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1865年
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英仏学修業のため加賀藩から長崎に派遣される。
幕府、仏海軍造船技師ヴェルニーを造船所開設のため招聘。
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明治01年
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1868年
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金之助、長崎から横須賀へ移り横須賀製鉄所長ヴェルニーに入塾、器械学を修業。
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明治02年
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1869年
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金之助、藩費留学。ヴェルニーの一時帰国に伴い渡仏、5月12日横浜出港、同船者に岡田丈太郎(加賀藩、鉱山学)、7月2日フランス着。
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明治04年
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1871年
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7月廃藩置県、金之助(器械学)文部省留学生となる。
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明治05年
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1872年
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金之助普通学終了し最上等学、教師アラン氏塾(学費800ドル)入塾。
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明治06年
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1873年
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金之助、パリ・エコール・サントラル入学、理工科を首席で勉学。
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明治07年
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1874年
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文部省が海外留学制度を全廃。
フランス政府が金之助を工芸大学院金星経過測検員に招聘(月俸100ドル)。
夏、宮内次官吉井友実来欧に会し、日本の輸出入不均衡の話が出て、まずマッチ製造を決意、パリで軸木刻み器械2挺を購入。
清水誠、フランス金星観測隊員として星学士ジャンサンとともに10月3日横浜着。12月9日海軍士官ドラクロワ率いる神戸支隊で諏訪山での観測を成功させた。
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明治08年
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1875年
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1月、ジャンサン長崎から帰国。2月清水誠金沢へ帰省。
4月、東京霞ヶ関吉井友実の私邸において黄燐マッチを試作に成功。
しかし黄燐の危険性からあえてこれを発売せず。
6月、横須賀造船所主船寮7等出仕。
清水誠、造船所内にフランスから甜菜種を取り寄せ栽培、甜菜糖を試作、大熊重信に供覧。
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明治09年
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1876年
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1月、ヴェルニー任務終了、3月帰国。
2月、清水誠造船課長となる。
4月、三田四国町吉井友実別邸において安全マッチを試作に成功。
製造販売開始、本人は公務があるので陸原惟厚氏に新燧社を起こさせて、公務の余暇に上京し諸事を教示した。
6月、輸出を目的として長崎出張所開設、陸原氏これに当たる。
8月、官庫から3万円拝借。
9月、工場を本所柳原町に移転、本格的に生産開始。
11月、丸善外2社の洋品問屋が協同し新燧社製マッチ販売に当たる。
12月、清水誠、依願免官。マッチ事業に専任。
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明治10年
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1877年
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2月、陸原氏退社。清水誠、新燧社社長となる。
2月、官庫から2万円拝借。
8月、第一回内国勧業博覧会にマッチを出品、鳳紋賞牌受賞。
9月、新燧社製マッチ上海へ輸出(国産マッチの初輸出)。
12月、官庫から2万5千円拝借(増産)。
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明治11年
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1878年
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4月、官庫から2万5千円拝借(輸出拡張)。合計10万円の拝借。
官命により精糖事業調査のため7月14日横浜出港ニューヨーク経由で
8月18日フランス着。新燧社製マッチを出品したパリ万博の視察を兼ねる。
ドイツでインプル軸木発見。
12月、新燧社失火により工場3棟焼失。
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明治12年
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1879年
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ドイツ、デンマーク、スウェーデンの安全マッチ製造場を視察。
4月帰朝。
全国の唐物問屋が出資して、新燧社摺付木大販売所(後に開興商社)を設立。
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明治13年
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1880年
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日本初の社交クラブ「交詢社」の発起人社員となる。
2月『交詢雑誌』に「東京新燧社之記」掲載。
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明治14年
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1881年
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北海道で白楊(軸木用材)を開発。
第二回内国勧業博覧会にマッチを出品、進歩一等賞受賞。
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明治15年
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1882年
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開興商社は解散、丸善引続き新燧社製マッチの販売に当たる。
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明治18年
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1885年
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マッチ工場乱立、粗悪マッチ輸出の煽りで新燧社も信用失墜、被害。
内国債主の承諾を得て、操業を維持継続。
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明治19年
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1886年
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清水誠外13名、東京摺付木製造者組合設立。
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明治20年
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1887年
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東京府工芸品共進会にマッチを出品、金牌受賞。
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明治21年
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1888年
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12月、外国債主の強い取立てにあい新燧社倒産。清水誠金沢に引退。
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明治28年
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1895年
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清水誠、第四回内国勧業博覧会の第一部審査官となる。
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明治29年
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1896年
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マッチ軸配列機(特許2796号)発明、上軸用、500余台販売。
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明治30年
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1897年
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マッチ軸配列機(特許2908号)発明、上軸・込軸用。
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明治32年
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1899年
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2月8日没、54歳。法名は實相院天阿誠道居士。
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