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ロウマッチの擦り方
■新燧社と清水誠 その2

『交詢雑誌』第5号 明治13年3月15日発行

○新燧社の記(前号の続き) 黒田康敬 編

製出総高(明治12年間の調査に係る 以下これにならう)
内国販売高 2759大箱 この代価 62077円50銭
外国輸出高 3405〃   〃 96191円25銭
合計製出高 6164〃   〃 158268円75銭

 但し 大箱1箱は小箱7200個を入れ、小箱1個は約70本を入る

  上記製造に要する諸項
役員   25名  この年分給料 5400円00銭
    上(出場平均数) 19名  この1人別日給 25銭
  中(   〃   ) 13名      〃 20銭
    下(   〃   )  6名      〃 15銭
職工   上(   〃   ) 53名      〃 20銭
  中(   〃   )167名      〃 10銭
    下(   〃   )503名      〃 5銭
    合計        761名  この年分給料 20395円20銭

 但し 男工中 平民33名 士族5名 15才以下5名、女工中 平民243名 士族 18名 15才以下337名、各種とも雇入れ後およそ1ヶ月にしてその業に習熟する。

木材 軸木 3242800束    この代価 17835円40銭
  経木 42920000組      〃 8154円80銭

 上記軸木は専ら白楊、さわぐるみで製作し、日光宇都宮、静岡に請負人がいて軸木を新燧社に順次送ってくる。 経木は桧で製作し府下に請負人がいてこれを製作する。

  パラフィン 108300斤    この代価 17328円00銭
  塩素酸カリウム 27776斤      〃 7082円88銭
薬品 赤燐 3549斤      〃 4919円91銭
  鉱類 15157斤      〃 849円42銭
  糊類 41983斤      〃 7137円11銭

 上記鉱類のうちおよそ7分の4及び糊類のうちおよそ5分の4は外品を使い、他の薬品は皆日本品を用いる。

  青紙 3319連    この代価 7467円75銭
紙類 黄紙 1304連      〃 2542円80銭
  白紙 20連      〃 39円00銭
  上包紙 2052連      〃 4658円04銭

 上記4種とも専ら舶来品を用いていたが近時大阪真島製紙所にて青黄白の3種を製出するけれども上包紙に限っては まだ洋品にたよらざるを得ない。 但し、青黄白の3種は小箱貼立てに使用する。

  大箱 3410個    この代価 3410円00銭
外箱 中箱 7900個      〃 1280円00銭
  ブリキ箱 20300個      〃 6432円00銭

 大箱は海外輸出に使用するもので松の1寸厚板で作り、中箱は内地運輸用のもので松6分厚板で作り、 ブリキ箱は防湿のため海外輸出用に使うもので大箱にはこのブリキ箱を6個入れる。

 上記に掲出したところによれば新燧社の事業をもって外品の輸入を防ぎえた金額は6万2千円余にして、 その輸出を増加した金額は9万6千円余である、 これを同社工業のために要した金属薬品等の代価総計4万6千円余と差し引いても尚10万円余の巨額が余る、 これが即ち新燧社の事業より生まれた国益である。
 そして役員職工の給料を初め同社の諸工賃合計4万8千円余の巨額に上る、これ即ち新燧社の事業より貧民らが受けた潤沢である、 あにまた盛んならずや。
 この大利源たるマツチ製造の手順及びその売りさばき方についてもまた記すべきものありといえども 他日をもってこれを述べることとししばらくここに筆をおく。

 文中 木支を軸木と表記した、軸木1束とは約1250本である。
 経木とは木材を紙のように薄く剥いだもので側箱と引き出し箱に用いた、この経木を組み立て補強するのに紙を貼り付けた、 従って糊の使用量が莫大である。経木製側箱は昭和40年頃まで用いられていた。
 1斤は600g、 1連は全紙1000枚(当時は500枚)英語でream。


  解説 黒田康敬 

 明治13年という時代に於いて、実業人のお手本として清水誠の業績の詳細をオープンにすることによって 交詢社社員の読者にたいする起業のすすめである。

 「交詢社(こうじゅんしゃ)」は明治13年1月25日に福澤諭吉が設立した日本初の社交クラブである。 その設立発起人の1人に清水誠がいた。 設立の目的は知識交換世務諮詢で社員各人が会し直接話をするところであり、社会教育機関としての役割を果たすものである。
 『交詢雑誌』は交詢社の機関誌であり毎月5日15日25日に発行された、 設立当初の社員数1767名中、東京社員639名、地方社員1128名という地理的分布で常に上京できない社員に対し 活動のやりとりをする媒体である。編集陣容は、小幡篤次郎、阿部泰蔵、四屋純三郎、犬養毅があたった。

 「清水誠」は弘化2年(1845)加賀藩士の家に生まれる。 20才の時英仏学修業のため長崎へ、23才のとき横須賀で器械学を修業、明治2年加賀藩の費用でフランスへ留学、 同7年パリで宮内次官吉井友実と会談、翌8年横須賀造船所に任官、造船技師が本務、9年退官。 明治11年の官命の本務とは砂糖製造方法の調査であった。
 *尚この時明治11年10月パリ博覧会に出品されたマッチ並びにマッチ工場の詳細な清水の報告書を早稲田大学図書館所蔵 大隈重信関係資料に見ることができる。

 清水誠の業績は、1、学識と経験とによって自らマッチの製造法を発明し短期間で事業を立ち上げたこと、 2、輸入マッチを退けただけでなく一大輸出品目として確立したこと、3、雇用機会の創出、労働環境の整備、であるとして 『交詢雑誌』は高く評価している。
 明治のこの頃は輸入超過だったので、自国の独立を安定したものにするには工業力をつけてまず貿易不均衡をなくすことが急がれたからである。

資料としての貴重性
 マッチの開祖でありながら清水誠についての資料は少なく、従って多くは伝聞である。 その中で『交詢雑誌』の記述は明治13年2月という創業後4年を経過していない時点であるので極めて珍しい正確なものである。

従来の通説との相違点

  1. 時期
    従来説では明治8年4月製造発売開始となっている。
    この資料では明治8年4月は黄燐マッチを試作したがあえて発売しなかった。 明治9年4月に安全マッチを製造し販売を開始している。 明治9年9月本所柳原町で本格製造開始は従来説も同様である。

  2. 品種
    従来説では明治8年4月から黄燐マッチを製造発売となっている。
    この資料では明治9年4月に当初から安全マッチを製造し販売している。

  3. 場所
    従来説では明治8年4月に三田四国町吉井別邸でマッチの試作となっている。
    この資料では明治8年4月は霞ヶ関の吉井私邸で黄燐マッチの試作をした。

 特に、今まで明治8年4月が日本の国産マッチ工業化開始年月となっているのでこの違いは特筆すべきものである。

参考文献
  『交詢社百年史』
  『マッチと清水誠』関崎正夫・米田昭二郎著

以上  

黒田 康敬
2009年10月14日