『交詢雑誌』第3号 明治13年2月25日発行
東京府下本所柳原町1丁目13番地に設立した新燧社は我が国において最も盛大なマッチ製造所であり、
現に交詢社発起社員清水誠君の所管するところである。
新燧社(しんすいしゃ)設立の起源を説明すると、明治7年の夏、清水君が留学してフランスにいる時に、
吉井友実君の来欧に会し共に心事を談じて、遂に我が輸出入不均衡のことに及び、
工業を内地に起こしてこの大患を救おうと約束したことにあると言う。
清水君はこの約束を実践するのにまずマッチ製造に着手しようと決心して、パリにおいて軸木刻み器械2挺を購入した。
次いで自ら帰朝してから、明治8年4月に東京霞ヶ関吉井君の私邸において始めてその製法を試験した。
このとき清水君が試製したマッチは我が国において今一般に用いるところの安全マッチではなかった。
清水君がフランスにいるとき彼の国にてよく使用していた生燐製の黄燐マッチを模したものであるので、
物に触れて容易に発火し且つ、小児等が誤ってその頭薬を口にしてその劇毒に触れる恐れがあった。
この故に第1回の試製すこぶる良結果が得られたけれども、清水君はあえてこれを発売しなかった。
さらに安全マッチを製出しようと決心したけれども、当時東京横浜間の薬店これに必要な赤燐を貯有する店が
ないのでどうしょうもなかった。
やむを得ず遂に自ら赤燐を製造しようとして、その器械をすでに準備していた。
ところが清水君は以前から官に就いていたので公務繁忙でいまだ計画を達成する暇がなくのびのびになっていた。
翌9年3月になって横浜在留の英国人某がまさに安全マッチを製造しようとしていることを伝聞したので
これに憤慨し即座に同4月14日より僅々20日間公務の余暇を得て、三田四国町にある吉井君の別邸において
始めて安全マッチを試製した。
このとき清水君が製出した安全マッチは全く君の自ら発明した薬法を用いたもので
一切外人から伝習したものでないことを明言しておく。
安全マッチの試製十分に成功し製造の準備もまたかなり整ったけれども公務があるので
清水君は自らこれを監督することができない、そこでその薬法等の仕様を陸原惟孝氏に授け、
三田四国町に新燧社を起こさせて、君は再びその任所横須賀造船所に帰り時々公務の余暇に上京し諸事を教示した。
これが即ち我が国第一をもって称せられるマッチ製造所・新燧社の起立した所以であり、
安全マッチの我が国に製造された始まりである。
但し、このとき使役した職工は僅々5〜60名であり、従って製出するところのマッチもまた極めて少量であった。
新燧社設立以来その製出するところのマッチとみに声価を得て、
製出するマッチの量は常に市場の需要を満たすところに足らなかった。
けれども新燧社の目的とするところは一大国益を起こすことにあるので、かりそめにも小利に安んずることなく、
清国上海はマッチ販売の高数十万円に上ると聞知って、9年6月には出張所を長崎に設け陸原氏自ら出張して
諸事を負担し専ら輸出に尽力した。
けれども事業益々隆盛となるに従い資本が多く必要になるのは論を俟たないところであり、
新燧社の資金もまた漸く寡少を訴えるところに至り、遂に同年8月には内務省に請願して官庫より金3万円を拝借した。
またその翌9月をもって製造所を今の位置に移した。
新燧社の位置をここに移したのは単に運輸の便とか土地の広大さを求めたのみではない、
マッチ製造の業は危険に属することであるので、これを盛大に行なうには市外の人口の密集してない地域で
稼動しなければならないからである。
この時になって職工の数ようやく増加して300人内外になった。
同9年12月清水君病のため官を辞して以後はマッチ製造の事業に専一尽力し、
翌10年2月には陸原氏が退社したのにともない代わって新燧社社長の任にあたった。
ここで益々社業拡張の意欲をもって10年2月再び内務省に申請して資金2万円を拝借した。
そこで塩素酸カリウム及び赤燐製造所を深川に設立した。
ところが同年の梅雨の時期に新燧社製出のマッチが湿気におかされて発火しないものがあり大変声価を落とした。
一時販路が閉塞状態となり社員は大変これに悩んだが、さらに精励して品質改良したところ、
ちょうど同年8月内国勧業博覧会があったので新製のマッチを出品して世間の品評をお願いしたところ、
望外の佳評を得て販路が復旧しただけでなく四方の注文以前の数倍に増し、加えて鳳紋賞牌を得て益々世上の信頼を固めたのである。
新燧社設立以来10年6月までの製出高、大箱446個この代価金10061円の多額に上ったが
まだ市場の需要を満たすのには足らなかった。
そこで同10年12月に三たび内務省に申請して金2万5千円を借用していよいよ製造を拡張した。
上野博覧会場に於いて改良マッチを発売して以来その販売高一時に増加して新燧社永続の見込みが確固たるものと
なったので殆どまったく輸入マッチを謝絶するところとなった。
清水君平素の希望もまたかなり達成されたようであるけれども、
かつて長崎に設立した出張所は木材の不足等の理由で業務は停滞し僅かの製出高では上海輸出向けに足らないので、
さらに東京本社の製出高を増やして直ちに上海へ輸出しようと企てて11年4月に四たび内務省に請願して金2万5千円を拝借した。
同11年6月人を上海に派遣して販路を開拓したところ上海輸入マッチはおおかた新燧社製品となることになった。
この時新燧社の政府から借用した金高合計10万円となり、社外において小箱貼り等に従事する者あらまし3000人を
除いても本社で使役する職工およそ1200名となった、また10年7月から11年6月までに製出したマッチの高、
大箱1696個その代価34768円に上った。
11年12月新燧社は失火により工場3棟を焼失したので約3万円の巨額を損亡したけれども、
この時には業務がかなり強固になっていたので工業には甚だしい影響がなかった。
かえってその後販路が益々旺盛になった、そこで11年7月以後12年6月に至る1年間の製出した高、
大箱4843個この代価金96860円になったのでこれを記す、しかもこの時社内に使役する職工は僅か700名にすぎなかった、
それは職工が各自の業に習熟したからに他ならない、習熟の効果は絶大であるといわなければならない。
これに先立って清水君は官命により欧州に遊学し、本務のかたわらドイツ、デンマーク、スウェーデンの
諸国の安全マッチ製造場を巡視した、なかでもスウェーデンの最もこの業に長じた工場を視察して、
そこで使用していた諸機械を買い求め、12年4月帰朝のときにこれを持ち帰ったので、
近い将来これを実地に使用すればその効果は製造上に一大改良をもたらすことは疑いない。
そもそも新燧社の事業というものは竈下(かまど)に使用する附木の製作に過ぎない。
その物の価は数百本で1銭にならないような物である、従って貧賤流浪の民が往々これを業として路頭に売り歩き
やっとなんとか暮らしている者がいるのである。
ところが清水君は以前からその一大利益を上げる事業であることを知り気合をいれてマッチ製造業に従事して、
その学識と経験とによって自ら製造法を発明し、起業以来わずか数年内に事業を盛大に導いて、
単に輸入品を謝絶しただけでなく、我が国の輸出の重要品を獲得したのである。
そのうえ製出するマッチの品質が良好であるだけでなくその価も極めて安いので貧者の炉辺にもこれを常備できる。
このことから製造したものはすぐ売れて現在在庫は無く、ただ製品の少ないのが悩ましいところである。
このようにしてこの工場に使役するところの数百の職工は大抵が老幼の婦女でありその多くは
もしこの工場がなかったら自ら附木を路頭に売り歩くような貧民である。
しかも清水君の適切な教導により各々自活の道を得ただけでなく、皆が有用事業の良好な職工となって、
工場を視察する者をその巧みな技量で驚かせることとなった。
かつ職工の疾病もしくは不慮の災いに罹る者にはこれを救助する備えがあり、
幼少の者に対しては就業の余暇に普通の教育を教授させる設備がある。
また工賃を節約して貯蓄したい者にはこれを預かる制度もあり、その保護はほとんど至らないところが無い。
このように社内に雇われて活路を求める職工のほかに、社外にいて小箱製作等に従事することによって
新燧社の恩恵を受けるものは現在だいたい2000人を下回らないと言う。
清水君が国に対してはこのように大きく貢献し、また貧民に施した徳はこのように深い、
この事業が今このように繁栄しているように、今後もまた速やかに旺盛になるであろうことは疑いのないところである。
次号には新燧社の現況を詳述し読者が同社の将来の好景を想像できるようにしたい。(以下次号)
「東京新燧社の記」を転載するにあたり、現代の読者に読みやすい本文を提供することをめざした。
現代普通と思われる文章に改めてリライトし、句読点を施した。
原文中にある、摺附木をマッチと表記した。また木支を軸木と表記した、木支とは英語の
Splintの訳語である。
生産量の大箱1箱とは、当時約70本入りのマッチ箱が7200個のことである。
附木とは杉や桧の薄片の先端に硫黄を塗りつけたもので、種火から火を移し取る時に使われた。
黒田 康敬
2009年09月29日