■パクリマッチラベルと福澤諭吉 その2
コピーライトに「版権」という訳語を作ったのは福澤先生である。
福澤先生の代表著作『学問のすゝめ』は明治5年に20万部を売り上げたベストセラーであるが、
偽版もまた盛んに出回り、その取締りに随分と手を焼いている。
という次第で版権にはことのほかうるさいのが福澤先生である。
さて福澤先生が叱った横文字ラベルのマッチはどこで作ったマッチか、という疑問が生じる。
「近来日本にもマッチの製造起りて、舶来の品にも甚だしく劣らざるものを製らへ出せり」と言っているから
輸入品でないということは間違いない、でなければニセラベルにはならない。
以下は私の推論であるが、次の2点において、まず清水誠の新燧社製ではないと考える。
第1点は、輸入マッチを追放するためにマッチ事業を始めている。
清水誠は加賀藩の費用で明治2年から7年までパリに留学する、
同7年に外遊中の宮内次官吉井友実とホテルで会談した際、吉井が卓上のマッチを指差して
「このようなマッチまで輸入に頼っているが、外貨不足の際これを日本で作れないだろうか」
と言われて、工学を学んだ清水にとってマッチ製造は容易と判断、
マッチの製造と輸出に貢献しようと決意したということである。
また清水は加賀藩士の子弟である。そのような人物がニセモノ作りに加担するはずがない。
第2点は時系列で見ても無理がある。
清水誠がマッチを試作したのが明治9年4月この時は生産量は少ないと考える。
量産化したのは同9年9月からである。
福澤先生が「トレードマーク・商牌の事」と題する一文を雑誌に掲載したのは、同9年10月26日であった。
日本人としてマッチ製造業を最初に立ち上げた人は清水誠である。
ところが明治8年1月22日付『横浜毎日新聞』に弁天通の持丸幸助がアメリカから機械をとりよせて、
横浜にマッチ工場を作ったという記事がでている。
どうも米国人との共同経営であったらしい。
唐物商売人(輸入雑貨商)は横浜で商売をしているから、この横浜のマッチを無標で仕入れ、
ニセラベルを貼って販売した可能性は充分にある。
一方、清水誠の新燧社のマッチは、明治12年に全国の唐物問屋が出資して、
新燧社摺付木大販売所(後に開興商社)を設立し販売に当たった。
開興商社は唐物問屋が扱っていた輸入マッチを国産品に切り替えさせて輸入マッチを一掃するための組織であった。
横浜のマッチはジャパン・セイフティ・マッチ・カンパニーの商号で汽車印のマッチを販売していたが、
明治15年ころから全く消息がつかめなくなっているのは、この開興商社から締め出されたと考えられる。
ニセラベルマッチは横浜のマッチであったとするのが妥当である。
黒田 康敬
2011年5月4日一部修正
2008年07月30日