■幻の横浜マッチ
1988年3月25日刊(横浜開港資料普及協会発行)の「横浜もののはじめ考」によると、
明治8年1月22日付『横浜毎日新聞』に弁天通の持丸幸助がアメリカから機械をとりよせ
マッチ工場を作ったという記事がでている。
マッチ製造の元祖は明治9年秋東京で製造を始めた清水誠が通説であるが、横浜の方が早かったことが分る。
また当時の新聞に「明治8年開業大日本極上品汽車マッチ」として広告がでている。
明治9年8月17日付『浪花新聞』には「近頃横浜製のすり附木(マッチ)を始て実見しましたが、
舶来品に勝りこそすれ劣りません」という投稿記事がある。
マッチの表には「汽車の列している絵」が付いていたというから横浜マッチである。
このマッチ工場の支配人は米人ブラウァーであったらしい。
ところが明治15年以降は横浜マッチに関する記録は全く見られなくなった。
どうも頓挫したらしい。
写真のマッチは平成7年に横浜グッズとして復刻販売した横浜マッチである。
黒田 康敬
2005年02月01日