明治10年代初期、マッチの商取引きは、総てマッチラベル(商標)によって行なわれ、製品の品質を表わす重要な役割を果たしました。独創的なすばらしいラベルは、国外にまで販路を飛躍させ、国際的な信頼を得ることができました。反面、安価で粗悪な類似ラベルが模倣され、市場に混乱を招きました。そこで明治17年6月に「商標条例」が公布され、ラベルの商標登録がなされるようになりました。
ここに収録したマッチメーカーは、明治14年設立の「清燧社」をはじめ、「良燧社」、「直木燐寸」、「東洋燐寸社」、「公益社」など多数にわたります。これらのマッチメーカーは、いずれも昭和2年に世界のマッチを支配していたスウェーデン資本の傘下となり、我国の市場の80%を占めていました。しかし、昭和7年にスウェーデンマッチ社は、事業に失敗し鮎川義介の「日産コンツェルン」に継承され、今日の「兼松日産農林」に引き継がれました。
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